クローネンバーグ×キング×ウォーケン 美しきケミストリー



デビュー作から独創的なテーマやストーリー、描写で独自のポジションを確立し、プリンス・オブ・ホラーと呼ばれたカナダの映画監督デヴィッド・クローネンバーグ。『ビデオドローム』(82)で創作における最初のピークを迎え、クリエーターとしての充実を実感しつつも、それとは裏腹な興行的惨敗というシビアな現実を前に、当時燃え尽きにも似た感覚に囚われていた・・・かも知れない。そんな状況もあってだろうか、それまでオリジナルに拘っていたクローネンバーグは初めて他者の脚本で映画を撮ることに。しかも原作者はモダンホラーの帝王スティーヴン・キングときた。このビッグ2のマッチアップ、果たして新たなる傑作ホラーの誕生となるか、それとも混ぜるな危険と判明するか・・・そんな、期待と不安の中で完成した『デッドゾーン』(83)は、結局のところ、才能が火花を散らしてせめぎ合う緊張感ではなく、キングの原作は初めからクローネンバーグを念頭に書かれたのではないか?と見紛うばかりの相性の良さをみせた。静かで、美しい化学反応とでも形容したくなる、観た人誰をも唸らせる映画である。

性と暴力を無秩序に開放する寄生虫、血の渇望を引き起こし狂犬病を拡散させる皮膚移植、奇形の復讐代行者を産み落とす精神療法、人間兵器たる超能力者を孕ませる精神安定剤、脳に幻覚を見せる腫瘍を発現させるビデオ信号・・・ 『ビデオドローム』までのクローネンバーグ映画は、事件を引き起こす原因が、いずれも医療やテクノロジーなど、人間の手によって意図的に生み出されたものであった。ところが『デッドゾーン』の主人公ジョニーの、望まざる予知能力の覚醒、そのトリガーとなったのは、不運にも遭遇した交通事故である。ここから、人の意思を超えて、ある種「神の授けし宿命」のような性質を帯び始めた悲劇の元凶はその後も、物質転送装置に蝿が紛れ込むアクシデント、固い絆で結ばれた双子の均衡を崩す女性との出会い、という風に気まぐれな偶然性に支配されてゆく。そうした変化の中に、「人間にはコントロールできない、大きな力を前にした時の無力感と、それでも宿命に抗う人の性(さが)」といったような人生観を、クローネンバーグが『ビデオドローム』の苦い経験から得たかも知れない、などと勝手に想像するまでもなく、『デッドゾーン』がクローネンバーグのキャリアにおけるターニングポイントの一つであるのは間違いない。

変化はそれだけに留まらなかった。凄まじいスキャナーパワーで辛抱堪らず炸裂する頭部や、フレッシュガンから発砲された癌細胞の増殖で崩壊する人体のような、特殊効果を駆使した視覚的な見せ場が、『デッドゾーン』では一切なりを潜めてしまったのだ。さらに音楽が盟友ハワード・ショアからマイケル・ケイメンに交代し、それまでの不安を掻き立てる不協和音的スコアは、明確に哀愁を帯びたメロディへと変化。物語の舞台となる街は『スタンド・バイ・ミー』(86)と同じく、キングの小説でお馴染みのキャッスルロックだが、ノーマン・ロックウェル風の美しいニューイングランド的風景は、薄ら寒く陰鬱だったカナダのそれとは一線を画し、作品世界のトーン確立を大いに後押しした。そして主人公ジョニーを演じたクリストファー・ウォーケンの存在が決定打となる。90年代以降は、強烈な印象で場をかっさらうバイプレーヤー的怪優といった側面ばかりが悪目立ちした感もあるが、『ディア・ハンター』(78)における、無防備な繊細さが服を着て歩いているような演技は、とりわけ女性ファンを魅了しまくったと言っていいだろう。そんなコワレモノ的オーラを全身にまとったウォーケンの登板により、主人公ジョニーが背負う宿命の悲劇性は一層の高まりをみせた。平穏な日常は唐突に奪い去られ、畏怖と好奇の視線に晒される日々。未練も何もないこんな世界を、それでも救わねばならないのは、今や子持ちの人妻となった最愛の女性サラのためである。だが、ジョニーの行動とその動機は、世間はおろかサラにさえ決して理解されることなく、胸中に秘められたまま静かに消えてゆく・・・。 悲しきアサシンを描くラブストーリーとして、それまでクローネンバーグ映画に縁の無かった観客層を取り込むことに見事成功したのである。ついでに言うならば、ベタベタに甘いメロドラマに仕上げるような愚を犯すことなど無論なく、観察者的な距離感をキープし続けたクローネンバーグ印のクールな演出は、旧来のファンを納得させるにも十分であった。 そして、あの何を見ているのか、何が見えているのか分からない、まるで占いの水晶玉のようなウォーケンの目こそは『デッドゾーン』に欠くことの出来ない重要エレメントなのだ。

ルック的にはそうは見えずとも、『デッドゾーン』が、過去作の延長線上に位置する紛れもないクローネンバーグ映画であることは、ファンならずともご存じだろう。それまで描いてきた肉体という外面的変化(『スキャナーズ』(81)でさえ、目に見えない超能力は肉体の破壊を通じて描かれる)が、ここでは予知能力の覚醒と、それによって自覚した使命という内面の変化にとって代わっているだけで、クローネンバーグが拘りを持って描き続けてきた、登場人物たちのアウトサイダー性にブレは無い。それどころか主人公ジョニーの外見は、モンスター化(=予知能力の覚醒)してもなお一般人と何ら変わらない分、周囲から理解されない孤独感、疎外感はむしろ増してさえいる。本作で、内面の圧倒的孤独を描くことに成功したからこそ、次作『ザ・フライ』(86)では、内も外もモンスター化してゆく恐怖と哀しみを、世界中の観客が納得し得る形で描きえたのではあるまいか。

とまれ、あのオープニングの比類なきタイトルシークエンスを思い出してみよう。それまでのクローネンバーグ映画のタイトルシークエンスは基本的にシンプルと相場が決まっていたが、本作は違った。いや、タイトルシークエンスが始まる前に、いつもの調子の簡素な字体で「The Dead Zone」と出るので、それがタイトルに相当し、その後のタイトルシークエンスはすでに映画本編なのだ。あのテーマ曲をバックに映し出される、美しいキャッスルロックの風景。それが徐々に黒く欠けてゆく。これから起こる悲劇を予感させるに十分な、感覚的にも優れた映像だが、本作はこの欠落=デッドゾーンを新たに埋めることで世界は変えられるのだという希望と行動を描いている。しかし、少し冷静になって考えてみよう。欠けた部分を別のもので無理やり埋められた景色(=自らの行動によって現出した新たなる未来)は、果たして本当に正しい姿なのだろうか?グロテスクに歪んではいまいか・・・そんな、本作が持つテーマの核心を、音楽と映像だけで見事に表現してしまったヤバすぎるオープニングなのである。

さて、長々と書き連ねて参りましたように、稀代の映画監督デヴィッド・クローネンバーグのキャリアにおいても重要なポジションを占める『デッドゾーン』ですが、米国にて待望のUHD化を果たしました。本編はオリジナル・カメラネガからの新規4Kスキャンマスター。ドキュメンタリーなど特典も充実で納得のスペックです。おめでとう!日本においては、完成から二年(『ビデオドローム』は三年ですが)も経って、ようやく
第1回東京国際映画祭TAKARAファンタスティック映画祭でお披露目された本作。その一般劇場公開は、『ザ・フライ』の大ヒットによるクローネンバーグの認知度アップを経るまで、さらに二年待たなければならず、ある意味存在自体が悲劇的な映画でもございます。店主など地方出身なものですから、当時は地元で公開される可能性など1mmたりとある筈もなく、悲嘆にくれる日々を送っておりました。それからしばらく経ったある日のこと、映画雑誌「ロードショー」(か、それとも「スクリーン」か)に掲載された広告で本作のビデオ発売を知るやいなや、興奮で鼻息を荒くしつつも「LDは出ないのか、LDは!?水平解像400本以上、半永久的にクオリティを保証され、一度買ったらもう一生心配なしというLDで欲しいのだよ、この俺は!」と、たちの悪い病気で熱に浮かされたかのように独り言をつぶやくこと小一時間。矢も楯もたまらず、記載されていたメーカーさんに凸電。対応して下さった方は、前のめり過ぎるこちらの問い合わせ口調に、ドーン!と引きつつも「今のところLD発売の予定はありませんが」と冷静にして無情なお言葉。「そ、そうですか・・・」と一気にトーンダウンした消え入るような声と共に受話器を置き、しょんぼり肩を落とすオタク高校生だった店主は、リリースされたレンタルビデオで糊口をしのぎつつ、ほどなくして無事にLD化された際には、『デッドゾーン』のLDを所有できる喜びに打ち震え、テスト勉強など全く身が入らないという、これもまた一つの青春でございます。

(店主)


デッドゾーン:コレクターズ版
The Dead Zone: Collector's Edition (1983)

 ¥7150



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